「高砂族」に関するエピソード引用
 
 
    高砂義勇兵

先祖伝来の蕃刀(ばんとう)で密林を切り拓き、
食料となる動植物の知識も豊富で在り、敵に立ち向かう勇敢さ、
そして彼らの徹底した忠誠心にだれもが舌を巻いた。

彼らは素直で純真、責任感があり、ジャングルでは方向感覚に優れ、
音を聞き分ける能力も在り、夜目が利く。
又、軍靴などは装着せず素足で行動し、足音さえ立てずに
完全な暗闇のジャングルを縦横無尽に渡り歩いたと言う。
潜入攻撃、切り込み攻撃では群を抜いた活躍を見せ付け、日本兵の度肝を抜いた。

世界最強の傭兵と謡われる英国特殊部隊・王立グルカ連隊と
高砂義勇は互角以上に渡り合い、グルカ兵の待ち伏せや奇襲攻撃に対して斥候を買って出た。

又その日本の古武士に似て名誉を重んじ、任務完遂には命を惜しまず
勇戦する姿と能力が高く評価され、昭和19年から正規兵として採用され、
各地で抜群の働きをした。
又大変日本兵とも相性が良く、共に歌を口ずさみ共にふざけ合い、同じ夢を見て眠った。

  (「高砂義勇伝」より)




 「おにぎり」

ある元日本兵は、同じ部隊で戦い、戦死した高砂族を慰霊するため、
この碑に赴き、そこで昼飯にと差し出されたおにぎりを見て、
いきなり涙を流し、慟哭をはじめたそうです。
「俺はこの握り飯を彼の前で食うことはできない。」と。

彼の部隊は東南アジアで作戦中、食料不足で飢えに苦しみました。
そこで足腰が強く、ジャングルに強い高砂族の兵士が、
遙か後方の基地まで食料を取りに行ったそうです。
しかし何日待っても帰ってこない。様子を見に行ったら、
彼は部隊まであと少しというところで、両手一杯の米を抱えて餓死していた。
米を持ちながらの餓死。
信じられるでしょうか。
餓死するほどの限界に達しながらも、多くの日本兵が心待ちにしている食料には
一切手をつけなかったのです。

慟哭した元日本兵は、そんな彼の霊前で握り飯を食うことができなかったのです。


 「返却された補償」

当時高砂族を部下に多数部下に持っていたある陸軍少尉は、
戦友の病気見舞いに訪台、同時に日本政府が台湾の戦後処理を放置しているのを見かねて
「我々日本人の恥である。戦友としてまことに忍びない。
国が補償しないなら、おれがする。ほんの気持ちだけど・・・・・」
と旧部下の戦友20余名に各日本円10万円を 贈った。

高砂族の部下一同御温情に感泣して
「こんな金をいただくわけにはいかない」と誠意のみ頂戴して全部返したといいます。




戦争はひどかったが、日本がひどいといった人はいなかった。
遠来の日本人に対するお世辞もあるだろうが、彼等は
「日本人は最後まで公平だった。われわれが死ぬとき、日本兵も一緒に死んだ」と、
むしろ僕を教え諭すようにいった。
「生涯で一番の思い出は?」とという僕の問いに
「敗戦で日本に帰る途中、基隆で降ろされ、日本兵と別れたとき」と一人が答えると、
同期だったもう一人が「そうだなァ、やっぱりあの時だなァ」と相槌をうった。
「白い手ぬぐいを出して、両方で手をふりあって、船が見えなくなるまで、立ってましたよ。
国旗を取り上げられて、白旗しかないんだ。あの時、せめて日の丸をふってあげたかった・・・」
その言葉には、間違いのない実感があった。